なかなかできない価値のあること
「謝る」ということ
「ありがとう」は素直に言えるのに「ごめんなさい」と言うのは、なんと苦しいことか。
幼稚園児でも言えるこの一言が、なかなか言えない。
確かに自分にも非があっただろう。でも、全部自分が悪いワケではない。そう思うと、頑として謝りたくない自分が出て来るのだ。
こんな時、持ち出すものは「正しさというモノサシ」
何が正しくて、何が間違っているのか、白黒はっきりさせようじゃないか、と。
そうやって正しさをいくら振りかざしても、人の心が動くことはない。
そういうことではなくて、自分の非は、非として認め、正面から謝ること。
ただ、それだけなのだと思う。
「ごめんなさい」と素直に謝れる人にこそ、器の大きさを感じるものだ。
「謝れない!」そう思う時こそ、勇気を出して謝ってみる価値は、ありそうだ。
今日は湯川のブログ始まって以来の「ポエム風」で始めてみました(どーした湯川ww)
相手は鏡だから
実は今日、あるお寺の前を通った時、門の掲示板に「あやまる」とひらがなでデカデカと書かれていたんですね。
その言葉を見た時、胸にチクリと傷みが走りました。
実は私、直近で謝っていないことがあったんですね。「心当たりがある」ことへの傷みでした。
そしてまさに「確かに自分にも非があっただろう。でも、
お恥ずかしい…。
で、こんなポエムのような言葉が出て来たってワケ(照)
一般的にどちらか片方が全面的に悪い、ということは無いでしょう。恐らくどっちも何らかの非はあるものです。
でもその非を認めてしまったなら全部自分が悪い、ということになってしまうんじゃないかと思うと、躊躇してしまうのかもしれませんね。
「向こうが謝るんだったら謝ってやっても良い」
これってきっと、本気の謝罪にはなっていないんでしょうね。そして本気の謝罪じゃないことは、相手にも伝わるものです。
気持ちよく過ごすために必要なこと
自分の非は非として認め、正面から謝ること。
言葉を濁したり、サッと済ませたり、言い訳がましいことを言うのではなく、はっきりきっぱり「ごめんなさい」と言うこと。
その上で、出来ることと出来ないこと、譲れることと譲れないことをキチンと線引きすること。
それだけなんだなあと思います。
恋人に対して、夫に対して、子供に対して、友人に対して、
はい、私もちゃんと謝りたいと思います。
湯川央恵