愛についてのアタリマエ

愛に悩む人は、
愛についての認識に何か問題があるのかもしれない、
ということを前回お伝えしました。
 
問題、というと大げさな表現ですが、
偏った解釈の仕方や
自分の中での常識やアタリマエと認識している部分、
と思っていただくといいかもしれません。
 
そういう部分こそ、
アタリマエ過ぎて見過ごしてしまうことが多いわけです。
 
だから自分に問題があるとは思えず「相手こそが間違っている!」と信じて疑わない、
かたくなな態度になってしまうのかもしれません。
 
 
それと、相手が間違っていると思っているときって、
ほぼほぼ向こうも同じことを思っているものですからね。
 
 
お互いが批判し合っている限り、
そこに安らげる愛などあらわれようがないのです。
 
幼い頃に「厳しく躾けられた」
「自由にさせてもらえなかった」と思っている方は、
それについて怒りや恨みに思う気持ちがあることで
「相手の全てを受け入れることが愛」
「優しく包み込むことが愛」と
思っていることがとても多いように思います。
 
そして抑圧されたと思う度合いの強さに比例して、
これらを当然にように信じる思い込みの強さとして現れてくるのです。
 
 

「○○してくれたら愛」は、思い込みに過ぎない

自分の全てを受け入れてくれたら愛されている、そうじゃないと愛されていない。
優しく包み込んでくれたら愛されているけど、自分と違う意見を言われたら、愛されていない。
 
そうやって「○○してくれたら」という、
あなたの思う条件を満たせば「愛だ」と思うのは、
自分にとって、とても不自由で制限の多い思い込みなのです。
 
そのような思い込みが多ければ多いほど、
相手からは「重さ」やジメッとした「湿度」として感じてしまうわけですね。
 
自分にとっては愛しているつもりでも、相手にとってはそうでない。
相手にとっては、あなたの期待に応えないと「愛」とは見なしてくれないわけですから。
 
愛に悩むのは、こうして、自分の中にある「これが愛だ」という不自由で制限の多い思い込みを
相手に押し付けているから、ということなんですね。
 
是非一度、自分の思う
「愛ってこういうこと」といものを書き出してみられると良いですね。
 
それが相手や自分を自由にすることや成長することに繋がるものであれば、
そのまま持っておかれると良いですが、
そうではなく縛り付けたい、
自分の自由にしたい、というものであったなら、これは手放して行った方が自分も相手もラクになりますね。
 
つまり、愛し方そのものに、実は問題があったということ。
 
皆さんは如何でしょうか?
 

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